· 

選手を続けますか?もう一つの空手で輝く人生

 

現代人は空手家と言えば何を連想するのだろうか?

どうでも良いことですが、和多志は時々思うのです。

 

「オスッ!」という独特の挨拶、華麗なる蹴り技(古典空手にはありません)など、見る者を惹きつける日本のマーシャルアーツ!ではないでしょうか?

 

その反面、自分には出来そうにない、もう年だから試合に勝てないなど。

 

 

確かに競技試合を目指しているならば、若いに越したことはありません。


競技試合では、所謂ロートルと言われる世代にとって過酷な世界だと容易に想像がつきます。

 

若いころと同じ内容の練習は不可能です。

それでも若い人たちと渡り合う。

 

試合で勝てなくても、「あの人あの歳で頑張っているよね!」というような感じで周囲は見ています。

 

「挑戦し続けることが美しい」

「武道の目的は人格完成に有るので、肉体的な強さではなく精神的な強さだ!」

 

 

確かにそれはあります。

 

 

しかし、自身の気持ちを納得させられるでしょうか?

 

和多志は納得できませんでした。

 

組手の際に、後輩が和多志に対して遠慮しているのが分かった時点で限界を感じました。


先輩だからと立ててもらい、普段の礼節は大事にされていましたが、組手では味噌っかす扱いされた氣分でした。

 

 

生涯空手家である以上、味噌っかす扱いは御免ですよね?

 

 

武術空手は競技試合で勝つことを目指しません。

かといって使えない技術を稽古している訳でもありません。

 

「試合が無いから実戦で使えない」は大きな間違いです。

試合が無いからこそ護身や実戦で使えることが武術の強みです。

 

戦後に流行った興行がどうも洗脳に近いようです。

ある意味「試合で強い者が実戦において強い」と思わされているのです。

 

 

武術としての”肚をつくる空手(古典空手)”では、

 

「20代、30代は力が邪魔をする!」

「40代、50代は仕事が忙しい!」

 

むしろ武術としての”肚をつくる空手(古典空手)”は60代からが活躍の世界です。

 

 

競技試合で勝つことを目的とせず。

精神論ではなく、人間の可能性を開く実技の伴った武術としての空手、それを修行する空手家になりませんか?