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言葉では伝わらない技術(理屈は役に立たない)

 

言葉では伝わらない技術があります。

 

常に鉛筆を使用していた小学生高学年の頃、初めてシャープペンシルを使った時のことを思い出しました。

 

 

鉛筆とシャープペンシルは、タッチが異なります。

鉛筆と同じ感覚で書くと、すぐに芯が折れてしまうのです。

 

学校の先生に、 「鉛筆のように書くと、芯が折れるよ」 そう教えていただき、気がつけばシャープペンシルを使いこなせるようになっていました。

 

時間にして、ほんの数分だったと思います。

 

これは和多志にとっては、”言葉で伝わる技術”だったのでしょう。

 

 

しかし、シャープペンシルと「筆」となると、そのタッチはだいぶ異なります。

毛筆の種類、さらには墨汁か墨(固形)かによってもニュアンスが変わってきます。

 

書道の先生に、「毛筆は筆脈(ひつみゃく)、氣脈(きみゃく)が大事です」 そう教えていただいても、すぐに筆を使いこなせるようにはなりません。

 

そこそこ上手く書けるようになるまでには、それなりの練習(修行)が必要です。

 

これこそが、「言葉では伝わらない技術」と言えます。

 

 

 

武術において、言葉はあくまで「補助」にはなりますが、技術そのものを伝えることはできません。

言葉で伝わってしまうような技術は、所詮は次元が低いものです。

 

高度な技術になればなるほど、言葉は意味を成さなくなります。

 

ですから、技術を理屈だけで解説することには、全く意味がないのです。

そして、「知っている」と「できる」の間には、決して重なることのない別次元の溝があります。

 

 

「できる」人が説明すれば、そこには説得力が宿りますが、それでも言葉には限界があります。

 

一方で、「知っているけれど、できない」人が、あれこれ説明するのは……評論家だけで結構です(笑)

 

要するに、武術は「人を愛する」のと同じ。

理屈ではない、ということです。

 

 

冒頭に鉛筆とシャーペンの例を挙げましたが、理屈っぽい人はきっと、「鉛筆もシャーペンも、突き詰めれば奥が深い」 などと反論してきそうです。

 

また、「力はいらない」と言えばそれは比喩(体の使い方)なのですが、「体を動かす以上、物理的に力は必要だ」という理屈も聞こえてきそうです。

 

 

戦後の偏差値教育の中で、私たち日本人は如何に理屈っぽくなってしまったのかと、つくづく考えさせられます。

 

 

和多志は、「理屈で教えない先生」こそが素晴らしい先生だと思います。

※それでも、つい理屈で説明して欲しくなっちゃうんですけどね(笑)